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能動的な観察、受動的な観察

ち着いた状態でじーっと坐っていると、小さな変化に気づきます。

たとえば身体の細かい感覚や、感情の小さな揺れ、身の回りで起きる様々な変化など、普段なら見落としてしまうようなことに嫌でも気付くのです。そこで、そのいろいろな変化をなるべく解像度高く観察しながら、自分自身や身の回りで起きている現実を改めて理解しようとする。坐禅という技術は、この観察と理解を積み重ねていくことで、自分を知り、人間を知り、人類を知り、動物を知り、生き物を知り、自然を知り…と、世界を理解する技術だと思っています。

自分と世界への理解が進めば、納得して生き方を選ぶことができるでしょうし、たとえアンコントローラブルな現象があったとしても、それがどうアンコントローラブルなのか自分なりにちゃんと理解することで付き合い方が変わったりもするでしょう。


ただ、いつも能動的に(みずから積極的に)何かを探究・分析するような姿勢で観察し続けることを、坐禅中に絶え間なくやっていると疲れてしまいます。

そんな時わたしは、能動的に求めるのとは違う、なにか「ただゆだねている状態」みたいな感覚で自分が今置かれている現状ををただ味わいます。特に何か一点に的をしぼることなく、ざっくり「身体全体の感覚に身を委ねる」とか「身の回りの空気に身を委ねる」ような感覚です。これを私は「受動的な観察」と呼んでいます。この「受動的な観察」をしている状態もおもしろい。自分の意識とは違ったペースで進んでいる物事に自分を委ねるので、自分以外のペースを擬似的に味わうことになります。すると、自分とは違った視点や感じ方があるという事実に気づき、新たな視点を得ることにもつながるでしょう。


しかし、実際にやってみるとなかなか難しいこともあります。たとえば、その時身の回りでおきるさまざまな出来事に、いちいち勝手に言語のタグ付けしたくなる無意識の衝動が邪魔になったり、いつの間にか脳みそが勝手な想像を始めていたり、日常の出来事を気づけば思い出している…相変わらず意識は勝手な動きをするということを実感するかもしれません。ですが、焦る必要はありません。その事実は否定すべきことではなく単に現実だからです。

もしその意識の衝動に気づいたら「そういうふうにできてるんだな、ふーん」とゆるやかに観察しつつ、やりたければまた初めから「受動的な観察」をやり直してもいいし、方針変更してそのまま意識の衝動を観察し始めてもいいのです。


今ここで起きている現実を全て観察対象として、自分のペースで自分の歩みを進めていく。


能動的な観察も受動的な観察も、どちらも楽しめばいいと思っています。


品部東晟


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