坐禅は人間を知る技術だと思っています。
例えば、遺伝という現象を観察することで、生物の進化を究明していくという、科学のアプローチがあります。さまざまな生き物の遺伝的特質と、ヒトのそれとを比較することによって、ヒトという生き物の立ち位置を、より鮮明に理解することができます。そして、究明の結果、私という現在地を知ります。あるいは科学のアプローチとは、より鮮明に真理と呼ばれるものに向かっていく、と同時に、真理と呼ばれるものの中に私がいることをより鮮明に実感する、そういう方向に働いている力学ともいえるでしょう。
例えば、おのれ自身と現実の世界を観察することで、自己を究明していくという、坐禅のアプローチがあります。自己の身体感覚や無意識的な衝動と、身の回りに存在する現実世界のさまざまなできごとを比較することによって、自己という存在の立ち位置を、より鮮明に理解することができます。そして、究明の結果、私という現在地を知ります。あるいは坐禅のアプローチとは、より鮮明に仏性と呼ばれるものに向かっていく、と同時に、仏性と呼ばれるものの中に私がいることをより鮮明に実感する、そういう方向に働いている力学ともいえるでしょう。
科学のアプローチで究明するその真理は、現実に全て表れていると知る。坐禅のアプローチで究明するその仏性は、現実に全て表れていると知る。と同時に、私が知ろうが知るまいが、あるがまま変わらず現実は現実であり続けている、ということが改めて腑に落ちる。
ヒトが認識しうることのあまりの狭さに愕然としながらも、紛れもなく今この瞬間現実に組み込まれている私が存在しているという事実から、大いなる安心を得る。
その安心が、私を自由にする。
そして私は、自由に生きる。 品部東晟
Comments