よく「坐禅と瞑想はどう違うの?」と聞かれます。
そんなとき私は、「坐禅と瞑想」は「野球とスポーツ」の関係に似ている、と答えています。
どういうことかというと、「スポーツ」のなかに「野球」という競技が含まれているのと同じように、「瞑想」のなかに「坐禅」という技術が含まれていると考えると理解しやすいということです。
スポーツという大きなまとまりの中には、野球、サッカー、水泳、マラソンなど、あらゆる競技が含まれます。
同じように、瞑想という大きなまとまりの中には、坐禅、ヨガ、マインドフルネス、ヴィパッサナーなど、様々な瞑想方法が含まれているのです。
ですから、「坐禅と瞑想の違いは?」という質問は、「スポーツと野球の違いは?」と問うているのと同じこと。スポーツの中に野球を含むように、瞑想の中に坐禅は含まれるのです。
では、「瞑想」とはなんなのでしょう。改めて「瞑想」という言葉をウィキペディアで調べてみました。
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各々の宗教の伝統や修行の段階、目的等により内容は様々である。この呼称は、単に心身の静寂を取り戻すために行うような比較的日常的なものから、絶対者(神)をありありと体感したり、究極の智慧を得るようなものまで、広い範囲に用いられる。現代では、健康の向上や心理的治療、自己成長、自己向上などの世俗的な目的をもって、様々な瞑想が行われている。
ーウィキペディアより
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瞑想というと、特定の宗教の修行方法であるようなイメージをもっている方が多いと思います。しかし、「瞑想=人間が心静かに集中したり、思いを巡らせたりすること」であるならば、宗教性の有無は必ずしも問題ではないのです。
つまり、「瞑想する」というのは、「運動する」や「食事する」や「読書する」という言葉と同じように、人間の一般的な行動を表すのあって、特別に誰かに習う必要があるとか、特定の機関による認定が必要とか、やるのに許可が必要とか、本来はそういうものでは無いということです。
何が言いたいかというと、瞑想することはそんなに怪しいことでも不思議なことでもないということです。もし、そういうイメージを持っている方がいるとすれば、私自身がそうだったように、たまたま瞑想という言葉の意味を探るほど接点がなかっただけかもしれません。
瞑想してみるのに誰かの許可は要りません。特定の瞑想方法を習熟したいのでなければ、やり方が正しいか間違っているかということも、気にする必要はないでしょう。
まずは、ジョギングするように、読書するように、自分のペースで「心静かに集中したり、思いを巡らせる」時間をもってみてはいかがでしょう。
驚くほどたくさんの、思ってもみなかったことに気づくことでしょう。
品部東晟
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