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【禅語】行亦禅坐亦禅(ぎょうもまたぜん ざもまたぜん)

亦禅坐亦禅(ぎょうもまたぜん ざもまたぜん)


歩くのも禅、坐るのも禅である。語る時も黙っている時も、動いても静かにしている時もその姿は安らかである。たとえ刀の切っ先を突きつけられても常に平気である。たとえ毒薬を盛られても安らかで緊張や恐怖がない。それが禅である。中国唐代の禅僧、永嘉玄覚による禅の古典『証道歌』の一節です。


さて、修行ってなにするの?とよく聞かれます。


僧堂で実際の修行生活を経験するまでは、私の修行のイメージはというと、暗いお堂で、あるいは山奥で、一心不乱に坐禅に打ち込んでいるようなイメージをもっていました。しかし、実際に僧堂で生活し実感したのは、「修行=生活」だということでした。


掃除、洗濯、炊事、食事、薪割り、風呂焚き、草むしり、畑仕事、儀式・・・

坐禅している時間だけでなく、日常のあらゆる瞬間を修業と捉えて生活します。実際、僧堂の規則にはこうあります。


「動中の工夫、静中に勝ること百千万億倍なり」


静かに坐っていることよりも、あらゆる動きの中で工夫をしていくことが重要だ、という意味です。

丁寧に意識を向けて、坐禅と同じ集中力をもって取り組めば、日常のあらゆる生活は動く坐禅となるでしょう。出家しなくても、修行道場に行かなくても、日常生活のあらゆる行為が、捉え方によってはただちに修行になります。日常のあらゆる瞬間を、より深く丁寧に味わって、味わい深く毎日を生きる。それが娑婆での修行なのでしょう。

どうぞお楽しみあれ。


品部東晟


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