天地与我同根 万物与我一体(てんちとわれとどうこん ばんぶつとわれといったい)
「天地と自分と根本は一緒である。万物と自分とは一体である。」という意味の禅語です。これは肇法師(じょうほうし)[西暦384~414年]という中国の仏教僧の言葉で、禅の哲学の根幹を表現する禅語として捉えられています。この禅語の起源は、中国の道教の始祖の一人、荘子[紀元前369~286頃]の「天地と我と並び生ず、而して万物と我とを一と為す」という言葉だと言われています。
禅がインドから中国に伝わったのは西暦520年頃、達磨大師によって中国に伝えられたと言われています。つまり、禅が伝来する以前から中国にあった道教の思想が、禅の哲学と結びついたということでしょう。
禅が中国から日本に伝わったのはさらに遅く、鎌倉時代[1185-1333]です。中国に渡って修行した栄西(えいさい)という僧侶によって日本に伝えられました。日本には古くから、人間は自然の一部であるという精神性がありました。この精神性と禅の思想が調和しているからこそ、中国から日本に伝わった禅が今日まで続いているのだと私は思っています。
さて、禅の世界では「無我」という言葉がよく使われます。「無我」の思想は「万物と我と一体」という言葉で表現されると考えられています。「万物と私とは一体なので、個として、独立して存在する我というものは無い」ということでしょう。そして、禅にはもうひとつ「無心」という言葉があります。「無心」とは、個人的な考えや感情が一時的に消え去り、過去や未来への執着が消え、今この瞬間の現実を受け入れる、空虚で静かな状態と表現できるでしょう。
この二つの言葉は似ているので混同しやすいですが、「無心」とは「無我を理解するために経験しなければならない心の状態」と考えるとわかりやすいでしょう。この「無心」の状態を自分で体験することで、「無我」の概念を身をもって理解することができる。「無心」と「無我」にはそういう関係があるのだと理解しています。
私は、坐禅とはこの無我の境地を体験するための身体技法だと考えています。
試しに静かに坐ってみると、自分の意識や感覚が自分の意思とは関係なく四方八方に暴走し、集中を乱している現実を体験することになります。その集中を乱す要素の一つひとつを納得いくまで観察し、理解することで、それに対処できるようになります。そして、次第に自分の中に静かな状態を作り出せるようになるのです。
「天地と我と同根、万物と我と一体」という言葉を携えて、心ゆくまで坐禅してみてはいかがでしょうか。
品部東晟
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