私は、自分が禅の坊主になるまで坐禅をしたことがありませんでした。興味もありませんでした。寺族ではない一般家庭に生まれた私は、宗教に対する興味もありませんでした。
大学を卒業後、いくつか仕事をしたのち、不思議なご縁によって禅坊主になることを決め、出家して修行道場(建仁寺僧堂)に入りました。それが私がまともに坐禅にふれた初めての経験です。いまから8年前のことです。
修行道場では、すべて自発的に掴み取ることを促すので、坐禅のやり方を言葉であれこれ指導してくれることはありません。寝ても、動いても、音を立てても、警策という木の棒で叩かれるだけ。わけもわからないまま、とにかくじっと坐るということを、ひたすら毎日数時間続けていました。
当時の私にとっては、じーっとし続けるのがそもそもしんどい。
身体はあちこち痛いし、眠いし、叩かれるのは怖いし、何をしてるのかよくわからない。毎日最低でも5時間近くは坐るので、とにかく暇で退屈。こんな時間の使い方をしていては、世間に遅れをとってしまうのではないか、という不安や焦りもありました。
ただ、私の中には一つの確信がありました。この坐禅という技術は、数えきれない多くの先人たちによって実践され、2500年以上もの年月を超え、人から人へと伝わってきた技術です。実践することで必ず何かしらの効果がある。だからこそ今まで実践され続けているんだ、という確信でした。
それから3年間、僧堂でひたすらに坐禅をしました。坐禅とは何なのかを常に考えながら、自分の身体と意識を実験台にして。そして、自らの体感を通じてその効果を実感しました。
僧堂を出た後は、両足院という京都の祇園にある禅寺で5年間、弟子として勤めてまいりました。その間ほぼ毎朝、坐禅会を実施してきました。坐禅を求める方達に対し、自らの体験をどのように共有することで、よりわかりやすく伝わるか試行錯誤してきました。坐禅のやり方を理解してもらった後は、自発的に楽しんで継続するために、どんなお手伝いができるか考え続けてきました。その方法は今も日々更新しています。
私は今、坐禅とはとてもシンプルで現実的な体の使い方の技術だと考えています。魔法的でも神秘的でもありません。明確で論理的、かつ具体的な技術です。まるでお箸の持ち方を覚えるかのように、何のために、どうやるのかを理解して、後は時間をかけて実践すれば、誰もが何かしらの変化を実感できる。そういう具体的な技術です。
坐禅は、まだまだ瞑想や宗教という不思議なベールの向こう側のものというイメージがあるように感じています。私自身も自分が実践するまではそのような印象でした。でも今は違います。坐禅を具体的な技術としてお伝えすることができます。休みの日にちょっと散歩したりジョギングしたりするように、誰もがいつもの生活に取り入れることができる技術です。公園やその辺の川原に、当たり前に坐禅をしている人がいる。そんな風景が近い将来現実になると思っています。
前提知識は何も要りません。まずは一緒に坐ってみましょう。
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